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炎上

なんという美しいところだ…
私たちは目を疑った。

孔舎衛坂(くさえのさか)での苦しい戦。
断末魔のあえぎ声と血の匂い。
這々の体で南へ逃れた私たちを冷たい雨が打つ。
そして、兄・イツセの死。

それでも私たちは進む。南へ!
雨は降り止まない。

「イリノ、なんて顔してるんだ。
 そんな顔してたら、天の運もどこかへ行ってしまうぞ。」

調子はずれに明るい兄の声。
この葬列のような行軍の、暗い陰気なムードを救おうとしているのか、芯から軽薄なのか。
今もって私には分からない。
そんな兄の内面に触れる前、誰の目も、その整いすぎた容姿に釘付けになる。
その恵まれた容姿故か、今まで一度も定まった妻を持たず、多くの女たちにかしずかれ、日々を愉快に過ごしている、そんな兄だ。
この遠征でも、どれほどの女を我がものにしてきたか…

「雨のせいですよ、兄上。
 なんてうっとうしんだ!!」

「雨なんて、いつかはやむさ。
 ほら、雨脚も弱まってきたじゃないか。
 西の空もあんなに明るくなって。」

兄が空を見上げると、その美しい姿に天が微笑みかけでもしたように、雨がぱっと上がり、あたりは明るい日の光に満たされた。

そこに、私たちは見たのだ、楽園を!
色とりどりの花が咲き乱れ、日の光に照らされて美しい宮が、楼台が、私たちの前に姿を現した。
これは現実か?
なんという美しい邑だ。
私は目を疑った。


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私たちは、邑のほど近くに陣を張った。
前の失敗を繰り返してはいけない。
事は慎重に運ばねば。

毎日のように軍議が開かれる。

「あのように、邑が美しく保たれているということは、
 知行が行き届いている証拠です。
 とてもたやすく破れる相手だとは思えません。
 その上、この兵力では・・・」

皆が口をそろえて言う。
そして沈黙・・・

何ら有効な作戦も立たず、日だけがむなしく過ぎる。

夜になると、明るく楽しげな歌声が遙かに聞こえる。
邑人たちが歌っているのだろう。

彼らの平和を、幸福を破壊する計画を日々練っていることに、
一抹の罪悪感を覚えつつ、私たちは眠りにつく。
イナヒの兄上を除いて。

夜ごと出かける兄。
また、いつものように、うたかたの恋を追っているのだろう。
毎度のことだ。
誰も兄の行動に注目する者などいない。


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「イワレヒコさま、今ですっ!
 今こそ、邑に火を放ちましょう。
 今夜は、祭の潔斎のため、邑の男たちは総出しております。
 邑には女たちしかおりませんっ」

いつになく大きな兄上の声に、眠りについていた私は飛び起きた。

「イナヒの兄上。
 どうしてそんなことを知っているのか?」

イワレヒコさまの声も聞こえる。

「イワレヒコさま。
 弓矢でもって戦うことだけが戦ではないのですよ。
 まして、私たちは孔舎衛坂で多くの兵士を失った。
 このお粗末な兵力では、どだい弓矢で戦うことはできないのです。」

「火を放つのか・・・
 あの美しい邑に。」

今夜も邑からは、女たちの楽しそうな歌声が聞こえてくる。
風に乗って聞こえてくるその歌声を聞きながら、イワレヒコさまは天を仰ぐ。

「兄上。
 それより、その情報はどこから仕入れたんですか?
 それを聞かなきゃ、邑に踏み込むことなどできない。
 もしその情報が間違いなら、私たちは全滅だ。」

黙り込んだイワレヒコさまの代わりに、私は兄に尋ねた。

「絶対に間違いのない情報だよ、イリノ。
 情報源は、この邑を治める名草姫だからな。
 王といってもまだほんの少女だがな。」

「兄上。
 いつの間に、そんな王たる姫と懇ろに?」

「イリノ、
 弓矢で戦うことだけが戦ではないとさっき言ったじゃないか。
 私だって戦っているのだ。」

兄は珍しく真顔で言った。

「さあ!
 イワレヒコさま、決断を!!」


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風に乗って、炎が邑を這う。
楽園が紅蓮の炎に包まれる。

私は兄上の顔をそっとうかがった。
今回の膠着状態を破って道を開いたのは、イナヒの兄上一人の功績だ。
さぞ満足そうな顔をしていると思いきや、
兄は、今まで見たこともない厳しい顔を、炎に向けていた。

「イリノ。
 戦とはむなしいものだな。
 今もあの炎の向こうに名草姫の笑顔が見えるよ。
 彼女は、本当に私を愛してくれたんだ。
 どこの誰とも知れない私を。」

兄上の頬を涙が一筋伝った。
by pain0107 | 2004-11-14 18:39 | 5.神武東征
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